どんな研究?
仮想現実(VR)では、映像や音は驚くほどリアルになりました。しかし、触感などの再現にも挑戦が続く中で、とりわけ難しいとされてきたのが「におい」です。
実はこの課題は新しいものではなく、1960年代に登場した体験装置「センサーラマ(映像・音・振動・においなどを組み合わせて体験できる初期のVR装置)」から研究が続いてきました。半世紀以上にわたり研究が続けられてきましたが、思い通りに扱える技術にはまだ至っていませんでした。
これまでの嗅覚ディスプレイには、いくつもの壁がありました。香りが届くまでの遅れ、強さの調整の難しさ、そして前の香りが残ってしまう問題です。たとえば「森の中」から「カフェ」に移動しても、香りは切り替わらず混ざってしまう ―― そんな違和感が、没入体験を妨げていました。
そこで東京科学大学(Science Tokyo)の中本高道(なかもと・たかみち)特任教授らの研究チームは、「香りを思い通りに出し、思い通りに消す」という難題に臨みました。そこで開発されたのは、VRゴーグルに装着できる小型の装置です。この装置は最大8種類の香り(たとえば、バラ、オレンジ、コーヒー、ラベンダー、キノコ、硫黄など)を扱うことができ、鼻のすぐ近くで発生させることで、よりリアルな体験を可能にします。
ここが重要
研究チームが開発したデバイスのポイントは、「香りを自在に操る」ための3つの画期的な技術です。この研究の新しさは、単に香りを出せることではありません。香りの「量」「混ざり方」「時間的な切り替え」を同時に制御できるようにした点にあります。
(1) 超微量の香りを正確に操る
香料をナノリットル(10億分の1リットル)単位で制御する技術を実現しました。これまで、香りをコントロールする際は、温度や風量で「なんとなく調整する」しかありませんでした。しかし、この装置では、香りの量そのものを直接制御できます。つまり、香りを「数値で操る」段階へ技術を一歩引き上げたのです。
(2) 香りを一瞬で混ぜて生み出す
超音波で液体を細かい霧にするSAWデバイスと呼ばれる素子を使い、複数の香料を同じ場所で一気に霧化・混合します。これにより、狙った香りをそのまま再現できるようになりました。また、香りを感じるまでの時間は平均3.17秒と、従来の嗅覚ディスプレイ(数秒程度)と比べても遜色のない速さです。
(3) 残った香りをすばやく消す
外部ポンプで鼻のまわりの空気を吸い出し、残った香りをすばやく消します。活性炭フィルタを通して外部に排出し、体験者の周りに香りをまき散らさないようにしています。さらに、ポンプで吸引した空気の流れは装置の熱を約48%抑える役割も果たしています。
今後の展望
この技術は、VRの楽しさを大きく変える可能性があります。実際に研究では、風景と音に加えて香りを組み合わせた「バーチャル旅行」を体験できるシステムが作られました(写真)。
さらに応用はエンタメだけにとどまりません。嗅覚の異常は、パーキンソン病やCOVID-19の初期症状として知られており、こうした装置は早期診断の手がかりになる可能性があります。また、脳とコンピュータをつなぐ「BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェース)」への応用も期待されています。
研究者のひとこと
VRで香りを体験するには、ウェアラブル嗅覚ディスプレイが有効です。ウェアラブルデバイスは大きさの制約がありますが、回路や機構部品を工夫することで、多くの成分の香りを発生・調合できるようになりました。香りは記憶や感情と深く結びついているため、香り提示によりデジタルな世界をもっと「生きた体験」に変えることができるようになります。
(中本高道:東京科学大学 総合研究院 未来産業研究所 特任教授)
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